提訴にあたって

 始めにこの裁判を思い立った経緯についてお話しします。小難しい話しになってしまいますが御了承ください。

 ひとつの大きなきっかけ。それは今春、3月29日に大阪市関淳一市長の判断と命令により行われた、大阪市西成区釜ヶ崎地区での2088名にも及ぶ”住民登録削除”処分です。関氏は現在の制度において”住民登録制度”が日本国憲法にて平等に保障されている選挙権や国民健康保険などの社会的権利、さらにそれ以前の問題として、最低限の日常生活を営む上において必須ともいうべき事実を考慮することも無く、一方的に住民票削除を行いました。そして、それは「適正化」の名のもとに現在も続けられており、西成区釜ヶ崎地区では先月あらたに777名が加えられました。

皆さんは、住民票、住所の無い生活を想像できますか?
仕事は優に及ばず、郵便物の受け取り、銀行口座の開設、携帯電話の契約、パスポートや免許証の取得や更新などなど。日常生活に限っても「住民票」は必須です。それに加えて選挙権の行使やその他の社会保障の権利は”文化的””民主的”な国々において当り前の権利です。

 ここで幾つか問題を提起します。皆さんは「住民登録制度」や「戸籍制度」そして「外国人登録制度」は生まれてこの方、空気や水のように当り前のこととして受け入れているのかもしれません。が、しかし、このような制度が存在するのは、日本とGDPを前後する国々においてはごく少数です。仮に住民登録が存在する国でも選挙登録とは分けられています。
 
 これは考えてみれば当然の事で、住民登録のあるなしにより選挙権の行使が出来ないのであるならば、民主化の条件のひとつである平等な普通選挙が不可能であるからです。つまり、住民登録が何らかの理由によって出来ない、経済的その他の個人的、社会的事情によって、選挙権の差別化が行われてしまうからです。

 先に少し書きましたが、私も今回の大阪市の住民票削除処分に出会うまでは、住民登録など水のようなものであり、”日本的”な便宜のひとつだろうぐらいに思っていました。そして実際、住民登録制度など多くの国民は関心など持たず、学生であれば親元に、単身赴任のサラリーマンなどであれば家族の住んでいるところに置いている、それが当り前でごくごくアバウトなものだと考えていました。しかし、実際には違いました。住民登録基本台帳法なるものを厳密に運用していけば、先に述べた便宜的登録者のことごとくが違法であるにも関わらず、大阪市が行った処分は、特定の階層の社会的弱者にのみその矛先を向けてきたのです。つまるところ、日本国憲法で平等に保障されたる国民が”日本人”であるとするならば、その線引きによって、行政の側から日本人と非日本人の差別を行った訳です。

 ここまで読まれた方で、何を極端なとの感想を持たれた方もいるかもしれません。しかし、私のロジックは飛躍ではなくて、”法”というものが歴史的に市民や国民としての社会的権利や人権を保障し、移ろいやすい為政者達によって先人達により勝ち取ってきたヒューマン・ライツが後戻りすることなきように権力者に対して”歯止め”を利かせるものだとの実感が、社会的に共有できる国であるならば当り前のことなのです。
 
 私はことの根幹の問題は管理制度そのものだと考えています。今回、問題としている「住民登録制度」だけに留まらず、「戸籍登録制度」、「外国人登録制度」をも含めての。一体、これらの登録制度によって我々が受けるメリットが存在しますか?

否です。

してみれば、一切は行政の事務的な便宜と事細かく管理しておきたい側だけのメリットとなります。

 ここから先は私見ですが、住民基本台帳ネットワークに反対することは本質を突いているとは思いません。ことの本質は住民基本台帳制度そのものだと考えます。ネットワーク構築時に一体どれほどの予算を注ぎこんだことか。それに加えて、年金番号のシステムもこれまた莫大なる予算をつぎ込んで行いましたが、結果はいま大問題になっている通りです。そすして、それらのシステムはもっと少ない予算で効率的に行えたはずなのに、無駄の多いシステムを各所管の省庁が予算獲得の為に行ったに過ぎないのです。

 諸外国の中で英語圏の国々は、出生登録と社会保障番号を持って国民としての登録制度を行っているところがほとんどですし、その場合には選挙登録は別途に行ないます。住民届け制度が存在する国々でも、選挙登録に関しては独立して存在します。なぜなら現行の国民国家制度で”普通選挙”を行なうとすれば、それ以外の選択肢はごく限られてしまうからです。
 もちろん住民票が置けないことに到った問題については、公営の住宅施設の完備やその他の社会保障制度によってその国々の行政機関が解決していかなければいけない問題であることは言うに及びません。しかし、それ以前に、国民としての平等な権利は守られて当然です。

その点我が国を省みてみれば、社会施策は経済的数値に比べて余りにも遅れているのが現実ですし、法の下の基本的人権の平等性に到っても同様です。

以上の経過から私は「自分にも選挙権は存在して当然」との主張を前面に立てて、訴訟を行うことを決断しました。

尚、注釈ながら戦後の日本の裁判の中で、固まってしまっていることなのですが、最高法規であるはずの憲法にも規程されている”違憲立法”審査権でさえほぼ機能していないのが実際のところで、つまりは立法府である国会が明らかに違憲である法律の数々を量産しても、現在の国政を野放しにしているごとく、その法律自体の不当性を主張することが極めて難しいのが現実の日本における裁判制度の実際です。それに加えて「当事者利益」などと難しいことを言って、人として「これはいくらなんでも不当だろう」との思いによっても訴訟することはできません。あくまでも訴える側が、斯く斯くしかしかによって、これこれの損害を受けたと言う形でしか裁判で扱ってはもらえないのです。だから、新聞ではほとんど数行記事でしか扱われない、国などの実質は違憲訴訟でも、わざわざ損害賠償額を低額でも設定して、精神的苦痛などの理由を加えて提訴に踏み切るのです。

この点から言えば、私は数週間前に大阪市によって西成区に置いていた住民登録が職権により削除されました。そうして、このままで行けば、今週末に行われる大阪市長選挙で投票することが出来ません。つまりは、当事者利益に則してみても私にはその資格があるということです。

 どうか、皆様の応援そして支援のほどよろしく御願いします。

     
      阪口 浩一